白人のいる風景

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01/12のツイートまとめ

kuantanlog

@Teika27 「文学」と「文芸」とは(常識的な概念として)どう違うとお考えですか。私は「文芸」という限りは自然なもののように思えます。「歌」「詩歌」も含めて。むしろ言葉から切り離された「音楽」のほうが不自然で、国家の要請で純化されて生まれたものではないでしょうか。
01-12 01:28

@Teika27 私は学生の頃、「なぜフィクションでなければならないのか」「なぜフィクションをありがたがるのか」が不思議でした。要するにウソでしょ?という感じ。今もその感覚があります。私が取り付きやすかったのはサルトルの嘔吐とかで、そればかり繰り返し読んでいました。
01-12 01:32

@Teika27 「なぜフィクションでなければならないのか」ということは、今でも考えます。「フィクションに価値なし」と判断できれば考えないのですが。たとえば、絵画はなぜ四角形なのか。写真も四角です。三角や五角の絵や写真は普通はありません。抽象芸術でも境界がないのは破綻しますよね
01-12 01:35

@Teika27 絵画に一定の形式の「枠」が必要なように(そして絵画は有益なものであるように)、「フィクション」という形式でしか表現できない思想があり、そういう形式で表現することに積極的な意味があるのかなあ、とは思います。
01-12 01:42

01/11のツイートまとめ - kuantanlog 日本人は根性がゲスなので、そのサイトがどんな思想を表現しているかよりも、どこの誰が書いているか、どんなやつが書いてるか、の方?... http://t.co/9djQQA27Kz
01-12 09:28

書類作成せず、7年後偽造=警察庁出向中の警部-後任も改ざん・大阪府警 http://t.co/F4wqxh9ukX
01-12 14:17

RT @Teika27: @kuantanlog 風巻景次郎という国文学者は、「文芸」と「文学」について、「説話、神話、古典的詩歌・演劇など、近代以前から存在し、世界中どこにでも存在するもの」を「文芸」、「近代化とともに成立した、近代社会と近代的自我を描くもの」を「文学」と規定…
01-12 15:00

@Teika27 興味深いです。日本人に「文学」が本当に可能なのか、という疑問がわきますね。無理な事をやろうとしているので、日本の「文学」はすべて滑稽なものになるのではないか・・とか。近代の小説を読む人は、フィクションであることを自覚しているのですが、近代以前は違ったでしょうね
01-12 15:14

@Teika27 ただ、「文芸」時代に、物語を聞いていた人は、それをフィクションだとは思っていなかったでしょうね。フィクションが分化したのでなく、(広義の)ノンフィクションが分かれていったんでしょうか。
01-12 15:19

RT @Teika27: @kuantanlog (承前)「文芸」に虚構はつきまといます。「フィクションだから嘘じゃないか」という視点が現れるのは、「文学」が登場してからです。「文学」は、作者の「自己表現」とみなされるので、虚構をかまえて実世界で体を張ってない著者は、不誠実だと…
01-12 15:22


RT @Teika27: @kuantanlog 日本人に「文学」が本当に可能なのか、というのは、私もつねづね疑問に思っていることです。日本の近代文学を読んでいると「悲喜劇」という感じを受けることが多いです(私も、その「悲喜劇」に末端で加担しているひとりなわけですが)。
01-12 15:22

@Teika27 リアリズムという考えが現れて初めて「文学」が成立した、ということになるのでしょうか。リアリズムが、日本に輸入されると、結局は「私小説」という作家の身辺雑記に堕してしまいます。作家その人の情実に終わり、楽屋落ちになりますね。この限界はどこからくるんでしょうね
01-12 15:33

RT @Teika27: @kuantanlog 難しい問題ではありますが、日本において、近代に固有の詩の形式が成立しなかったのが大きいと思われます。歴史的に見ても、藤村が『若菜集』を出したり、近代詩の運動が活発になるのが明治30年前後。そうした詩の運動が挫折した明治40年前後…
01-12 16:45

RT @Teika27: @kuantanlog (承前)「詩」の形式が成立していないから、本来、「詩」に書かれるべき「作者のナマの実感」を小説で表現しようとして「私小説」になってしまうというわけです。あと、私小説作家は「地方から上京してきた教養のない人」が多いです。そういう「…
01-12 16:46

RT @Teika27: @kuantanlog (承前)消化する能力はないのにひと旗あげたい文学者」にとって、「私小説」を「近代リアリズム」と称するのは、かっこうの抜け道だったというのもあるかもしれません。私小説作家は、鴎外や漱石のようには、西洋語も漢文もできず、ネタを探せる…
01-12 16:46

RT @Teika27: @kuantanlog ざっくりいえば、「近代詩」がなりたたないゆえに「近代散文=近代リアリズムを支えることば」がきちんと形成されなかった、ということでしょうか。日本語は、音韻の数が少なく、長編の韻文には不向きな言語で、物語や歴史が、千年前から散文で書…
01-12 16:49

@Teika27 「私小説」というカテゴリーに入っている人に限らず、近代日本文学は私小説的ではないでしょうか。読者の側の関心が作品よりも、作家個人の情実にあるからということはないでしょうか。例えば太宰治は教養もあり私小説作家とはされませんが、作家個人と作品とのケジメがありません。
01-12 16:58

RT @Teika27: @kuantanlog 丸山真男が「欧米では社長は、会社で社長の仕事をする人であり、プライヴェートな時間では社長もその秘書も「市民」に戻る。それが日本では会社にいるときもいないときも、社長であることがその人の属性になってしまう」といっています。
01-12 23:29

RT @Teika27: @kuantanlog (承前)だから日本では、作家というのは、本を書く人だからそう呼ばれるのではなく、あるタイプの人種の称号なのです。だから、読者の関心が作品より作家の私生活にむけられる、という面が強い傾向があるのかもしれません。
01-12 23:29

@Teika27 何処かで読んだ評論で、太宰は心中も演出としてお芝居として読者を楽しませるためにした、みたいなのがありました。読者との狭いサークルの中にいて、自分の生活と自分が表現する世界との区別がつかなくなってたのかなとか思いました。(まぁ、私はああいうのは好きではないです)
01-12 23:38

@Teika27 「近代的自我」って、何でしょうね。日本の文学や文芸評論で言われる「近代的自我」とは。デカルトの存在論ではないですよね。デカルトにとっては神の存在証明が重要で、ワレアリはそのための段階だったのですが、日本に神はないので。
01-12 23:54

RT @Teika27: @kuantanlog 安東次男が「遺髪を出征時に残していったせいで、戦死せざるを得なくなった兵士がいた」という意味のことを書いてます。三島由紀夫も、本当は死にたくなかったのに、縦の会の若者に「先生はいつ死ぬんですか」と突き上げられ、死なざるを得なくな…
01-12 23:55

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